こうそかべ ちかやす
| 地域 | 四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部家臣 |
| 大名家 | 長宗我部 |
| 家紋 | 七つカタバミ |
| 主武器 | 太刀・外交書状 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 知謀・忠義 |
長宗我部国親の三男。兄の元親を軍事と外交の両面から支え、土佐東部から阿波南部までを切り取った。長宗我部の対外交渉の窓口でもあり、織田信長・豊臣秀吉との折衝を一手に担った。兄が戦い、弟が交渉する。長宗我部の急拡大は、この分業によって成り立っていた。
香宗我部親泰とは
天文十二年(一五四三)生まれ。四歳上に長兄の元親、二歳上に次兄の吉良親貞がいた。三兄弟はいずれも国親の子だが、長宗我部の姓を継いだのは長兄だけで、親貞は吉良氏、親泰は香宗我部氏という土佐の名族をそれぞれ継いでいる。征服した家を滅ぼさず、弟に継がせて内側から取り込む。これが長宗我部の拡大の型だった。
香宗我部家の継承
永禄十年から十一年(一五六七〜六八)ごろ、香宗我部親秀の娘を娶って婿養子に入り、家督を相続した。香宗我部氏は土佐東部に勢力を持った国衆で、当時は没落の過程にあった。その家に長宗我部の血を入れることで、旧臣をそのまま家中に取り込むことができた。領民から見れば主家は変わっていない。抵抗が少なく、しかも確実に長宗我部の力になる方法だった。
土佐東部の制圧
親泰の最初の担当は土佐東部である。この方面には安芸国虎がいた。兄とともにこれを攻め、天正三年までに安芸郡を完全に制圧する。以後は安芸城の城主となり、郡の統治を任された。軍代として一方面を預かるという立場が、ここで確立する。
阿波への進出と海部城
土佐を出てからも、親泰の受け持ちは東だった。阿波へ進み、海部城を落とすとその守備を任され、阿波南部の軍代を兼ねる。牛岐城にも配され、日和佐城を降伏させたのも親泰である。阿波の南半分は、事実上この弟が切り取った土地だった。海部城は、異母弟とされる島親益が殺害された地でもあり、長宗我部が阿波へ攻め込む名分となった場所である。
織田信長との外交
親泰にはもう一つ、兄が誰にも任せられなかった役目があった。外交である。長宗我部が四国で自由に動けたのは、畿内の織田信長と話がついていたからだった。その交渉にあたったのが親泰で、天正八年には安土城へ赴いている。元親の嫡男が信長から一字を受けて信親と名のったのも、この関係の産物だった。
織田家との関係悪化
しかし織田家の四国方針が変わると、両家の関係は崩れる。天正十年には長宗我部討伐軍が編成される寸前まで進んだ。これを止めたのが本能寺の変である。信長が死んだことで長宗我部は救われ、四国統一へ向けて動き出すことになる。
豊臣秀吉との交渉
信長のあとは秀吉が相手になった。ここでも窓口は親泰である。ただし秀吉の側には、すでに長宗我部を四国から締め出す構想があった。秀吉は甥を阿波の三好康長の養子に入れ、「三好信吉」と名のらせている。長宗我部包囲網の一手であり、交渉だけでは覆せない大きな流れだった。
四国攻めと降伏
天正十三年(一五八五)、豊臣秀長を総大将とする十万余の軍が三方向から四国へ渡った。長宗我部の動員は二万から四万。親泰が固めていた阿波南部が、そのまま戦場になる。主戦場となった一宮城は水の手を断たれて七月中旬に開城し、八月六日までに講和が成立した。元親は土佐一国を安堵され、阿波・讃岐・伊予を失う。親泰が十数年かけて切り取った土地が、ひと夏で手を離れた。
最期
文禄二年(一五九三)に没した。朝鮮出兵の陣中で病没したとも伝えられる。享年五十一。次兄の吉良親貞はすでに天正四年(一五七六)に早世しており、元親は嫡男の信親も戸次川で失っていた。頼りにした弟たちと嫡男を順に失った元親は、後継をめぐって家中を割り、慶長四年(一五九九)に世を去る。
人物評価
武辺一辺倒の武将ではない。方面軍を率いて城を落とす軍人でありながら、安土へ赴いて天下人と渡り合う交渉役でもあった。長宗我部が土佐一国の小勢力から四国の覇者へ駆け上がれたのは、この弟が軍事と外交の両方を引き受けたからである。そして親泰の死は、長宗我部という一族が支えを失っていく過程の、最後の一段でもあった。





