きら ちかさだ
| 地域 | 四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部一門 |
| 大名家 | 長宗我部一門 |
| 家紋 | 七つカタバミ |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 「元親の右腕」・四国平定の立役者 |
長宗我部国親の次男で、元親のすぐ下の弟。兄の命で土佐の名族・吉良氏を継ぎ、軍代として土佐西部の攻略を一手に担った。三兄弟のうち最も早く世を去り、長宗我部が四国へ大きく踏み出す直前に姿を消している。
吉良親貞とは
生年は天文十年(一五四一)ごろとされる。二歳上に長兄の元親、二歳下に三弟の香宗我部親泰がいた。三人はいずれも国親の子だが、長宗我部の姓を名のったのは長兄だけである。親貞は吉良氏、親泰は香宗我部氏を継いだ。滅ぼした家を消さず、弟に継がせて中身を入れ替える。長宗我部はこの方法で土佐を呑み込んでいった。
吉良家の継承
永禄六年(一五六三)、兄の命によって土佐の名族・吉良氏へ婿養子として入り、家督を継いだ。吉良氏は土佐中部から西部に影響力を持つ家柄で、その名跡を得たことは、西方へ手を伸ばすうえでの足場となった。旧臣はそのまま家中に残り、領民から見れば主家は変わらない。血族を名族の器に流し込む長宗我部のやり方が、最初に適用された例である。
長浜の戦いでの初陣
永禄三年(一五六〇)の長浜の戦いは、長宗我部元親の初陣として知られる。色白で物静かなことから姫若子と呼ばれていた兄が、この戦いを境に鬼若子と呼ばれるようになった一戦である。親貞はこの初陣に兄と並んで出ている。兄弟がそろって戦場に立ったところから、長宗我部の拡大は始まった。
土佐西部の攻略
以後、親貞は軍代として土佐国西部の制圧を担当した。西には、京都から下向して戦国大名となった一条氏がいる。中村を本拠とし、公家の家柄という権威を持つ相手であり、正面から敵に回すのは難しかった。この難しい方面を長く受け持ったのが親貞である。
一条氏の没落と土佐統一
一条兼定は天正二年(一五七四)に土佐を追われ、翌天正三年の渡川の戦いで長宗我部が勝利したことにより、土佐一国の統一が成った。西の脅威が消えたことで、長宗我部はようやく四国全体へ目を向けられるようになる。
伊予・阿波への進出
土佐統一の前後から、長宗我部は国境を越えて動きはじめる。親貞は西と北の方面で先鋒を務めた。東を受け持った弟の親泰が阿波南部を切り取っていったのに対し、親貞は伊予方面を担った。兄が中央から全体を見て、弟たちが西と東を受け持つ。この分業が長宗我部の速さを生んだ。
軍代という立場
軍代とは、方面ごとに置かれた司令官である。その方面の作戦と統治をまとめて任され、兄はその上で全体を見る。親貞と親泰という二人の弟がそれぞれ西と東を預かったからこそ、元親は土佐の中央にいながら四国全域へ手を伸ばすことができた。代わりのきかない仕組みでもあった。
早すぎた死
天正四年(一五七六)、親貞は早世する。享年三十六ほどと見られる。元親が土佐統一を終えたばかりで、四国へ本格的に出ていく直前のことだった。西の司令官を失った痛手は小さくない。以後の西方攻略は、兄と三弟が引き受けることになる。
人物評価
長宗我部の急拡大を支えた二人の弟のうち、先に失われたのが親貞である。兄弟で方面を分けるという仕組みは強力だったが、欠けたときに代わりがきかないという弱さも持っていた。親貞が死に、のちに嫡男の信親が戸次川で討たれ、三弟の親泰も世を去る。そのたびに長宗我部は一段ずつ足場を失っていった。四国の覇者と呼ばれた一族の強さと脆さは、どちらも同じ兄弟という仕組みから生まれている。

