長宗我部信親 | 元親の嫡男で信長から「信」の字を受けた跡継ぎ。九州の戸次川で島津軍に討たれ22歳で散った

長宗我部信親の肖像

ちょうそかべ のぶちか

地域四国
所属勢力・属性長宗我部氏
大名家長宗我部氏
家紋七つカタバミ
主武器太刀・弓
得意分野武芸(伝承では大力と武勇)
衣装・甲冑豪華金箔具足
武将タイプ「秀才」・戸次川の悲劇

土佐の長宗我部元親の嫡男。織田信長から「信」の字を与えられ、跡継ぎとして期待された。1586年、豊臣秀吉の九州攻めの先遣隊として豊後へ渡り、戸次川の戦いで島津軍に囲まれて22歳で討死した。その死は長宗我部家の行方を大きく変えた。

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目次

長宗我部信親の基本データ

名前長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)
幼名千雄丸
生没年永禄8年(1565年)〜天正14年12月12日(1587年1月20日)、22歳
父母父・長宗我部元親、母・石谷光政の娘
正室石谷頼辰の娘
最期戸次川の戦いで討死
墓所雪蹊寺(高知市長浜)、高野山奥の院(分骨)

長宗我部信親が生きた時代

信親が生まれたころ、父の元親は土佐の中部を押さえ、土佐統一に向けて戦いを続けていました。信親が10歳になる天正3年(1575年)ごろ、元親は土佐一国をまとめあげ、続いて阿波・讃岐・伊予へと兵を進めます。

そのころ中央では織田信長が勢力を広げていました。元親は信長と手を結び、四国を切り取ることを認められていましたが、やがて信長は方針を変え、四国攻めの準備を始めます。本能寺の変で信長が倒れたのは、まさにその軍が出発する直前でした。信親は、長宗我部家が四国の覇者へと駆け上がり、そして天下人の前に屈するまでの時代を生きました。

長宗我部家の家柄と家紋

長宗我部氏は、土佐の長岡郡を本拠とした国人の家で、元親の代に戦国大名へと成長しました。家紋は「七つ酢漿草(ななつかたばみ)」です。信親はその嫡男として、生まれたときから跡継ぎと定められていました。母は美濃の石谷光政の娘で、明智光秀の重臣・斎藤利三とも縁のある家です。この縁が、長宗我部家と織田家、明智家を結ぶ糸になっていました。

主君との関係――信長から「信」の字を受ける

天正6年(1578年)10月、信親は織田信長から「信」の字を与えられ、信親と名乗りました。大名の子が有力者から名の一字をもらうのは、相手との結びつきを示す大事なしるしです。長宗我部家と織田家の同盟を形にしたものといえます。なお、この元服は以前は天正3年とされていましたが、石谷家に伝わった古文書の発見によって見直す説が出ています。

得意分野――文武にすぐれた跡継ぎ

信親は、身長六尺一寸(約184センチ)の大柄な若者だったと伝わります。軍記物の『土佐物語』には、三間(約5.4メートル)の堀を跳び越えたという話があり、学問や礼儀作法にもすぐれていたと書かれています。父の元親は信親をたいへんかわいがったといわれます。ただし、こうした話の多くは江戸時代の軍記物によるもので、伝承として読むのがよいでしょう。宣教師ルイス・フロイスの記録には、信親がキリスト教への入信を考えていたとも書かれています。

四国攻めと豊臣政権

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は弟の秀長を総大将に、10万をこえる大軍で四国へ攻め込みました。長宗我部家は各地で敗れて降伏し、元親は土佐一国だけを許されます。信親もこの戦いを経て、豊臣政権の大名の跡継ぎという立場になりました。

戸次川の戦い

天正14年(1586年)、秀吉は九州の島津氏を攻めるため、まず四国の大名たちを先遣隊として豊後へ送りました。軍監の仙石秀久のもと、元親・信親父子や讃岐の十河存保が加わります。島津軍が大友方の鶴賀城を攻めると、秀久は援軍を待たずに戸次川(いまの大分市の大野川)を渡って攻めかかることを主張しました。元親は反対したといわれますが、押し切られます。

12月12日、川を渡った豊臣方は島津軍の待ち伏せにあって総崩れになりました。秀久らが退くなか、信親の隊は取り残されて敵に囲まれます。

長宗我部信親の最期

信親は中津留川原で奮戦し、長刀で8人、太刀で6人を斬ったと伝わりますが、最後は島津方の鈴木大膳に討たれました。22歳でした。家臣700人ほどもともに討死し、十河存保もこの戦いで亡くなっています。父の元親は辛うじて伊予へ逃れました。のちに島津家から遺骸が返されたとき、元親は泣き崩れたと伝わります。

長宗我部家の家族

  • 父:長宗我部元親
  • 母:石谷光政の娘(元親夫人)
  • 弟:香川親和、津野親忠、長宗我部盛親
  • 正室:石谷頼辰の娘
  • 子:娘一人(のちに叔父・盛親の正室となる)

長宗我部家の家系図

長宗我部元親
父
元親夫人
母・石谷氏
|
長宗我部信親
嫡男
香川親和
弟
津野親忠
弟
長宗我部盛親
弟
|
娘
子・盛親の正室

長宗我部信親の相関図

織田信長
「信」の字を与えた相手
豊臣秀吉
九州攻めを命じた天下人
長宗我部信親
元親の嫡男
長宗我部元親
父
仙石秀久
戸次川での軍監
鈴木大膳
信親を討ったと伝わる島津方の武士

子孫のその後

信親には男子がなく、元親は四男の盛親を跡継ぎに決めました。このとき、信親の娘を盛親に嫁がせています。家臣の中には次男・香川親和や三男・津野親忠を推す声もあり、反対した吉良親実らは処罰されました。盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に改易されます。大坂の陣で豊臣方として戦った盛親は、敗れて処刑され、大名としての長宗我部家は途絶えました。信親の血筋もここで絶えています。

名言・伝わる逸話

信親本人の言葉は伝わっていません。信長が信親を気に入り、養子にほしがったという話もありますが、これも伝承です。大分市上戸次には「長宗我部信親終焉の処」があり、地蔵と鎮魂碑が建てられています。

参考にした資料

  • 『土佐物語』(軍記物)
  • ルイス・フロイス『日本史』
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親』(ミネルヴァ書房)

このイラストについて

このイラストは、陣の旗を背に、弓を手に立つ信親を描いています。若々しい顔つきと落ち着いた目で、文武にすぐれた跡継ぎとして期待された信親の姿を表しました。背後の兵の列と旗は、長宗我部家が出陣した戦場をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

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長宗我部家

土佐の有力な国人「土佐七雄」の一つ。長宗我部国親が一度失った本拠の岡豊城を取り戻し、子の元親が勢力を広げた。元親は1575年の四万十川の戦いで土佐一条氏を破って土佐を統一し、阿波・讃岐・伊予へ攻め込んで四国のほぼ全域に手を伸ばした。

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